更新日:2022年7月20日
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一宇治城跡航空写真(国土地理院2013撮影)
一宇治城跡は、標高約144mに築いた山城で、東西約600m、南北約650mの規模を誇ります。城の東側より神ノ川が城の北縁を沿うように流れ、城を守る堀の役目を果たしており、まさに自然の地形を活かした天然の要害といえます。
この城は鎌倉初期に紀四郎時清が創築したと伝わっています。その後、島津氏一族伊集院久兼(久親)が居城しました。久兼は城内に神明宮(伊勢神社)を勧請したとされています。『伊集院由緒記』の「神明宮」の項には、「往古伊集院本城内ニ安置有之」とあり、同宮の棟札には正応元(1288)年初めて勧請したとの記載があったといいます。当城主郭の「神明城」の名前は、この神明宮が由来と考えられます。
南北朝時代、伊集院氏5代忠国は島津一族で唯一南朝側につきましたが、暦応3(1340)年に、島津氏5代貞久に敗れ、伊集院平城に撤退しています。
宝徳2(1450)年、伊集院氏8煕久の代には、島津家9代忠国に攻められ、伊集院氏は衰退しました。本城は守護島津家の支配下になったのち、戦国期には島津実久(薩州家5代)の勢力下となり、実久の家臣、町田用久が城を守りました。
その後天文5(1536)年には、忠良とその子、島津貴久・忠将兄弟が一千余りの軍勢を率いて夜襲をかけ、落城させました。
この戦いについて『伊集院由緒記』によれば、忠良は本田石見房慶俊に命じて稲荷神に戦勝祈願させたところ、城の「棖木口」(たつのきぐち)に狐火が起こったといいます。その火を目印に攻めたところ城を攻略できたとの伝説が残っています。かくして貴久は天文14(1545)年頃から一宇治城を居城とし、同19年に鹿児島の内城に移るまでの間、薩隅平定の本拠としました。
同18年、貴久はフランシスコ・ザビエルと面会し、キリスト教布教を許可していますが、一説によれば、この面会の地が一宇治城とされています。なお、本城で貴久の子、義久・義弘らも幼少期を過ごしたといいます。
一宇治城は、戦国島津を語るうえで欠かすことのできない、極めて重要な城のひとつです。
一宇治城の本丸、神明城の写真
ザビエル会見の碑
一宇治城跡は、10回ほどの発掘調査を実施しており、2千点以上の出土品が確認されています。出土品は、土師器がもっとも多く、次いで青磁、白磁・中国陶器・天目碗・青花など、大陸との交易のなかで流入した陶磁器がかなり多く出土しています。そのほか、国産の備前・東播磨系陶器、奈良火鉢、風炉など、多様な遺物が確認されています。
遺物の時期は、14世紀以降が主体で、歴代城主の伊集院氏らや島津忠良・貴久らが活躍した頃のものもありあす。中国産の天目碗や、青白磁渦巻文梅瓶といった高級品や、墨書のある青磁、白磁のほか、国内でも類例のない、龍を描く粉青沙器など、鹿児島県内でも極めて希少かつ貴重といえるものが多く出土しています。
龍を描いた粉青沙器の壺片
青磁の碗、皿、盤など
青白磁渦巻文梅瓶
天目茶碗(輸入品)
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