更新日:2022年7月21日
ここから本文です。
伊作城跡航空写真(国土地理院2013年撮影)
伊作城は、日置市吹上町中原の東側にあるシラス台地上に築かれた中世の山城です。標高約72mを頂とし、周囲は急な斜面に囲まれていて、城の南側は伊作川が自然の堀となっています。東西約1500m、南北約750mに及び、南九州でも屈指の規模を誇る山城です。伊作城の主郭は亀丸城と呼ばれ、島津(義久・義弘・歳久ら兄弟)の誕生石などが置かれています。主郭の縁には高さ50〜60cmほどの土塁が一部残るほか、井戸跡の推定地も確認できます。30近い曲輪と十数か所の空堀があり、中でも10m以上の高さを誇る断崖の西側の空堀(与倉)は、とても見ごたえがあります。
伊作城は南北朝期に築かれ、戦国時代の終わりまで代々の伊作氏の居城となっていました。伊作氏は、島津氏3代久経の子久長が弘安4(1281)年に伊作庄の地頭となったことに始まります。
伊作城を拠点とした伊作氏の中でも、10代忠良(日新斎)は戦国島津や近世島津を語るうえでも要となる人物です。大永6〜7(1526〜1527)年に島津本家15代当主となった息子の貴久を助け、弱体化した島津本家を立て直しました。忠良は、戦国島津の礎を築いたことから「島津中興の祖」ともよばれています。また、地元では「日新公」の名で親しまれます。
伊作城は、江戸時代以降も、近世島津家発祥の土地として薩摩藩により、とくに大切に守られてきました。
のちに、一時は九州のほとんどを手中に収めた島津義久、義弘、歳久、家久らの活躍も、父貴久や祖父忠良の教えの結果によるところが大きいとされます。
このような歴史的重要性に鑑み、昭和30年、当時の鹿児島県内では初めて、主郭の亀丸城部分が県指定文化財(記念物・史跡)に指定されました。
伊作城西側の与倉空堀
伊作城のうち、主郭の亀丸城跡と御誕生石
伊作城のうち、主郭の亀丸城跡の調査状況
南側の調査で見つかった、等間隔に並ぶ柵列の跡
伊作城跡はこれまで、主郭の亀丸城と伊作城の南側の2地点の発掘調査を実施しています。亀丸城跡の発掘調査では、建物と思われる柱の跡が確認されており、館などがあったのではないかと思われます。
伊作城南側の発掘調査では、建物と思われる柱の跡や、土坑、溝跡のほか、等間隔に並んだピットなどを確認しており、柵列があったものと推定されます。また、この調査区域では、曹洞宗瑞亀山善勝寺の歴代住職の石塔が確認されていることから、善勝寺の寺域を含むものと考えられます。善勝寺は、伊作氏8代久逸の菩提寺であり、江戸時代の主要な景観・神社・仏閣、城跡などをまとめた『三国名勝図会』によれば、伊作城とともに善勝寺も描かれています。
こうした発掘調査によって、国産の瓦質土器や土師器皿、天目碗のほか、中国陶器、青磁、白磁、中世須恵器、明代生花など、国内外の遺物が出土しています。なかには、忠良が使っていたものもあるかもしれません。いずれも、伊作城の歴史やその意義を語るうえで、重要な資料といえます。
土師器の燈明皿(煤が付着し黒くなっている)
青磁の碗や壺
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください